土曜日, 26.05.2012 22:30
 
 

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ゲルハルト・リヒター 矛盾を抱えた芸術家

彼は自由を愛し、秩序を必要とする。彼はシャイな人間であり、偉大な画家である。ゲルハルト・リヒターは2012年に80歳になる。

文 ハンノ・ラウターベルク

記録の更新はとどまるところを知らない。最初『2組のカップル(Zwei Liebespaare)』に約1,000万ユーロの値がつき、その後『ろうそく(Kerze)』が1,200万ユーロで買い取られた。2011年秋には『アブストラクト・ペインティング-849-3das Abstrakte Bild – 849-3)』が約1,500万ユーロで競り落とされた。ゲルハルト・リヒターにしてみれば唖然とするような話である。今日間違いなくドイツの最も重要な芸術家であるリヒターは、2月に80歳の誕生日を迎える。そして、彼は自分の作品に支払われる常軌を逸した金額を「まったくばかげている」と見なしている。これほど巨大な成功を収めようとも、コレクターや美術館や美術批評家らが声高に賞賛しようとも、ゲルハルト・リヒターは高齢になってなお己に忠実であり続けている。彼はこれまでに一度も、思いついたことを直ちにカンヴァスにぶつけるようなエネルギッシュな芸術家だったことはない。リヒターは控えめで静かなものを好む。あらゆる喧騒に対する彼の姿勢――、それは謙虚さである。

 

私は彼を、かつてケルンの自宅に訪ねたことがある。通りに面した窓のない、白い漆喰の塗られた家だ。世間から離れて引きこもるのが彼の好みなのである。彼は偉大な画家であり、シャイな人間なのだ。この家の主は軽い足取りで戸口まで出てきた。彼はほっそりした体つきで、ちょっと微笑み、咳払いをすると、先に立って私を中に案内した。アトリエは絵の具の匂いがしたが、絵筆や絵の具のチューブがその辺に転がっているということはなかった。床は染みひとつないグレーで、整然としていた。何もかもきちんと整理整頓され、隅々まで目が行き届いていた。このこともまた、この画家の本質の一端を表している。彼の作品は決して騒々しくはなく、派手な身振り手振りで自己表現することもなく、また観る者が目をぎらつかせるような、激しい感情を喚起することもない。むしろ曇った眼鏡越しに観ているかのように、その作品世界にはうっすらと霧がかかっている。リヒターは正面きったアクセスを拒む。それは彼自身についても言える。皮相なものをことごとく避ける一方で、彼は早くからカメラの使用に目をつけた。カメラは彼にとって現実を見るための覗き穴なのである。彼は写真を撮り、それらの写真を基にして風景や花やろうそくや家族の情景などの大型油彩画を描く。そうした絵画は内面的な作品であることが多く、鑑賞者は作品制作の源となった感情の高揚を感じる。けれども、それらはセンチメンタルなものを拒絶する。あたかも誤解を避けるためのワニスであるかのように、リヒターは自分の作品を不鮮明なもので覆っている。彼は作品に漠然とした感覚を与える。彼は感情を表しているのだが――、やはり表してはいないのである。

 

こうしたアンビバレンスは彼の神経を酷使し、負担をかける。それはやっかいなものである。リヒターの抽象的な作品は、はるかにやすやすと彼の手を離れる。それらもまた彼の気分を伝えるものの、抽象画の場合、彼は凡庸な自己露出にそれほど用心する必要はないからだ。なぜなら、それらの作品では、自由奔放にジグザグを描く楽譜のようにも見える色彩の帯や点や染みが彼の感情を包み込んでいるからである。リヒターは抽象表現を、雰囲気を醸し出し物語を紡ぐ音楽のように、具体的な形をもたないものを伝えるための可能性ととらえているのだ。リヒターはよくカメレオンとか、軽業師のように技法から技法に飛び移る画家と言われる。フォトリアリズムを試したかと思うと、その後再びカラフルなストライプのとりこになるからだ。しかし、リヒターはフォルマリストではなく、また気分次第で様式を替える人間でもない。彼は長い時間をかけて、正しい表現を嫌というほど追求する。とっさの思いつきや大仰さは、彼にはいかがわしいものなのだ。彼にとって芸術とは、真剣に取り組むべきものであり、真実を物語るものである。そして、彼は自分自身と格闘しながら、きわめて綿密に真実を追求する。彼には、これよりほかになすすべがないからである。

 

ドレスデン生まれのリヒターは早くから絶対的な何かに突き動かされるのを感じ、16歳のときにアマチュア劇団の地域巡業に同行して書き割りを描き、時折自分自身のための記録として水彩画を描いた。このときに彼は欲求が満たされる喜びを感じるようになり、それから離れたくなくなった。彼はまず織物工場で織物の図案家として働いた後、ドレスデンの芸術アカデミーに入学し、正式なデッサンと正しい思考法を厳しく仕込まれた。芸術は東独の権力者らにとって何よりもまずプロパガンダだったからである。社会主義リアリズムの教義が重視され、リヒターはそれに従ったが、1959年にカッセルで開催された現代美術展「ドクメンタ」を観るために民主主義の西側に旅行し、ポロックやフォンタナの作品と自由な芸術に触れてから、その教義を疑い始めた。この自由はリヒターの心をつかんだ。彼は1961年にデュッセルドルフに移住し、新たな生活をスタートさせた。もっとも、当時の生活はまだ彼本来のものとは言えなかった。少なくとも1年間、彼は絵筆を使ってやみくもに描き、絵の具をドリッピングし、吹きつけ、それまでに逃してしまった経験をすべて夢中で挽回しようとした。そして、彼の焚書の夜が訪れた。彼は自作の絵画をデュッセルドルフの芸術アカデミーの中庭に積み重ねて火をつけ、焼き払ってしまったのである。このときリヒターは無から生まれた芸術家になった。彼は自分を抑止する可能性のあるものすべてから自らを解き放ったのだ。こうして、現代的自律性の神話が実現した。少なくともリヒターは当時それを期待した。政治的芸術のくびきから自己を永遠に解放したいと願ったのである。

 

しかしながら、彼の最初の展覧会は「資本主義リアリズムのためのデモンストレーション」と題された。自らの出自から解放されることが彼にとって恐らくそれほど容易ではなかったことを、すでにタイトルが告げている。同展は美意識から冬の亡霊を追い払い、西側の美術シーンを揺るがすことになる、一種の芸術の謝肉祭だった。しかしリヒターはほどなく、自分がハプニングにふさわしい人間ではないことに気づいた。彼はシャーマンにもダンディにも適していなかった。今日もなお彼は、己をカルトの対象に仕立て上げる芸術家を嫌っている。恐らく彼はそうした芸術家らの自己愛だけは羨んでもいるのであろう。なぜなら、彼自身は常に疑念に苦しめられ、他人は自分よりはるかに才能があると信じて、今日もなお自分の能力に不満を抱いているからだ。しかし、彼が最も疎ましく感じるのは、自作を告知の道具にする、自称「芸術の神々」である。彼は様ざまなイデオロギーを察知すると、すなわち大衆を熱狂に扇動する気配をかぎつけると、常にそこで退却する。東独時代に得た教育は後々まで彼の脳裏から離れず、彼もまたそれを手放そうとはしない。だから彼は自己開示について熟慮し、慎重なのである。リヒターは自分の絵画で真実を示そうとはしない。それらの作品は常にひたすら、彼自身のもつ屈折に向かっている。

 

だが、彼はこの分裂を賞賛してはおらず、むしろそれに苦しんでいる。芸術の深い危機や凡庸さの勝利を嘆いているのだ。彼にとって自己の自由は何よりも大切である。だが、彼は恣意性、すなわちあらゆる規範の喪失を憎悪している。芸術はより高い使命をもっているというのだ。この点で、リヒターはきわめて中産階級的であり、美術館を今なお精神修養のための場と見なす古い理想が心に刻み込まれている。リヒターは自律性を欲する一方で、コミットメントをも求め、自由でありたいと願う一方で、結びつきをも望む。彼ほどこうしたドイツ的矛盾を生きている芸術家は、彼の同世代には他に類を見ない。

 

今日、芸術大学がデッサンの授業を行わなくなり、誰もが自ら芸術家を名乗れることをリヒターは憤慨している。なぜなら、彼自身は明白な規則に従って制作し、現代の芸術家に必要とされるものが何であるかをよく知っているからである。そして、常にこの規則の根拠を探り、解釈しようと努めているがために、あらゆる規則や美術史を無視する芸術家に腹を立てるのだ。リヒターがモダニズムのタブーを犯して、風に波打つ風景や鮮やかな黄色いチューリップの花束を描くとしたら、彼にとってそれは常に限界を探求してのことなのである。彼がそうした作品を思い切って制作できるとすれば、それは自分が制御可能な体系の中にいることを彼が知っているためである。彼の自由は秩序を必要とし、秩序から出発することによってのみ、彼は芸術においてタブーとされているもの、すなわち美を追求することができるのだ。フェルメールのように、あるいはベラスケスのように絵を描くことは、たとえ彼がそれをあえて行わないとしても、彼にとっては依然として心を駆り立てる憧れなのである。ここでついに写真の出番となる。写真はすべてをはるかに正確に見せることができ、絵画を無くてもよいものにする。

 

とはいえ、絵画は時としてあらゆる写真を超えた能力を発揮する。シュトゥットガルトのシュタムハイム地区にある刑務所で死亡したドイツ赤軍派のテロリストらを描いたリヒターの連作は写真を基に描かれたものだが、絵画になって初めて闘争力を獲得した。左翼はリヒターが彼らの殉教者らを自分たちから取り上げようとしていると非難し、右翼は死者が崇拝の対象になることを恐れた。同連作は思想的な怒りのはけ口にされ、作品に向けて緊張がぶつけられた。これはリヒターを喜ばせた。だが、彼は同じことの繰り返しに興味はなかった。彼は自分を政治的画家だとは思っておらず、またテロリズムや遺伝子技術といったテーマの絵画制作を受注するような画家でもない。2012年に開催されるドクメンタについての理論的論争が早くも遠くの雷鳴のように聞こえてくる時期に、リヒターがアトリエで好んで制作している作品は8つの乳灰色のガラスプレートである。彼は沈黙するすべを身につけていると言えるかもしれない。

 

彼は保守的だと言われても不快ではない。家族は彼にとって大切で、モラルも同様に重視している。そして、カトリック教徒の味方であることも明らかにしており、ケルン大聖堂のカラフルなステンドグラスの制作も引き受けている。人生を通じて、あらゆる形式の崇拝に対して免疫ができてしまっているため、彼は信徒の好みに合わせはしなかったかもしれないが、救済への希望に導かれて作品を制作した。リヒターは十字架もデザインしたことがあり、たとえ皆からまた頭がおかしくなったと言われたとしても、彼はそうした制作活動を今後も続ける意向である。それは彼にとって自分の信念、すなわち芸術が人々の心を慰め、高めることができるという確信のしるしだからである。芸術がいつかはあらゆる分裂を克服するだろうと信じる彼の気持ちの象徴なのだ。これはゲルハルト・リヒターにとって、オークションで自分の作品に支払われる何百万ユーロもの金額よりはるかに価値あることなのである。///

 

ハンノ・ラウターベルクは週刊新聞「Die Zeit」の文芸欄編集者で、著書にベストセラー『Und das ist Kunst?!(仮訳:ところでそれは芸術なのか?!)』がある。

10.01.2012
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